「プロデューサーさんって、ほんと勤勉ですよね」

とかいうことを、事務所のアイドルから言われることがある。事務所からの帰りに次回のプロデュースの約束をしたり、セルフレッスンをまかせるときに、次に会う時の時間はたいがい手帳に書き込んでいる。
「スケジュールは確定した段階で必ず書き込みますよ。そしてちゃんと書いといてくださいね」とかいう話を事務員兼任のアイドルと話したこともあったせいで、まあ誰でも書くものだよななどと思っていた。


「あーでも、特売日って覚えちゃっているから書いとかないでもいいかもです。書くのってチラシの裏になっちゃうんですけど、セールは表側に書いてるんで」


「そういえば『1日3時間しか働かない国』って本が売ってましたよ。でもダンスの練習が3時間だけだと物足りない日もあるかもなぁ」


一日のプロデュース時間ということでなら、約3時間というのは妥当な数字だろう。だが、そのほかの時間はなにかといえば、またべつの仕事をしているわけで、3時間まで業務時間が短縮されることなどとてもありそうには思えない。


仕事の定義とは何かと問うとき、労働と賃金の交換だということは簡単だ。
ではつづいて、遊びの定義は、と考えるとどうか。
例の『1日3時間しか働かない国』の子どもは「遊ぶってゆめを胸いっぱいに吸い込むみたいです」と旅人に言っていた。では、遊びの定義は「自由な活動」とでもするか。


「でもおかしいの。じゃ、自分の自由に仕事してるときとかってなに?」
「あと、兄ちゃん、つまんない上にお金もらえない予定とかいれちゃうじゃんよ」


相互排他的でないうえに、茫漠とした補集合に囲まれた2つの集合。


だが、一見穴だらけに見えるのは、これが働く側の視点から捉えた姿だからじゃないか?
雇用する側、労働力を利用する側からすればこの区分には価値がある。


仕事をさせるとは、ある効果(価値・サービス)を要求することであり、その結果と交換に対価を支払うことだ。交換を仕掛けるものの常として、対価に見合うものはできる限りに安定的に手に入ることを求める。
だから、その支払いの保障として、仕事についての意思決定は雇用者が持っているかのように振舞われるようになる。
結果、仕事とは不自由かつ報酬を得られる活動であり、その結果は常に予測可能であることが求められる。
他方で、遊びは自由かつ無報酬の活動であり、その活動の結果は予測不可能なもので、他者から利用できないということだ。


かくして、すべては仕事と遊びに分類される。


「でもそう考えると、本当に遊びといえる活動なんてほとんどありませんね。営業はもちろん、レッスンだってそれに一定の効果がついてくることを確信してやっていることですから。ひょっとすると一番の仕事だと思っていたファンの前で歌う瞬間が逆にもっとも遊びに近いかもしれません。だって、コンサートって、いつもいくらかは『賭け』みたいですもんね」


結局、一日3時間仕事をして、残りは遊びなどという生活は、この社会の構成員としては破綻しているのだ。
予測可能性とわずかな予測不可能性ならともかく、そのほとんどが結果の予測不可能な活動で占められる構成員から、安定成長する社会は生まれ得ない。
たとえ、その成長に内的な矛盾を抱えていても、ミクロレベルで構成員たちが不幸を自覚していようとも、集団は安定するのだ。


「そういえば、私もはな歌とかしてて我に返ると、あー今サボってたなーっておもいますよ」
「完全に結果を期待してない行動ってのもあるか。コンサート中にステージ脇でデジカメ撮ってるときも、これ仕事してないなぁとかおもうからな」
「えっ、それってどういう……!?」