エイプリルフールは嫌いな人たちに

嘘をつくにも一苦労だと、昔の友達が言っていたので、その話。
社会人になると、会社でエイプリルフールめいた冗談を言ったりもするらしい。ただそのときに、それが絶対に嘘だとわかる証拠をこっそりとでも用意しておく必要がある。


エイプリルフールに便乗しているサイトまとめ2009年版 - GIGAZINE
日本インターネットエイプリルフール協会
wikipedia:エイプリルフール


でもそれは、「嘘」と呼べるものなのか。


嘘にもふたつあって、嘘をついた瞬間に嘘だとわかる嘘と、いつまでも嘘か本当かわからない嘘は、実際、質的に違う。


前者の場合ひとは、逆説から真実を導こうとする。
後者だとひとは、命題自体を忘却する。


もし、狼の来ない夜に狼が来たと叫び、狼の来た夜に沈黙する少年がいれば、彼は嘘つきではなくnot回路だ。村人はその沈黙を持って狼の訪れを知る。
しかし狼の来ない夜に、狼と関連なく、気の向いたときに狼が来たと呼ばわる少年は嘘つきだ。このとき村人は彼を判断の基準として採用しない。だから彼のアウトプットが偶然に正確であるケースがあったとしても、無視は最善の策なのだ。


つまり村人は予測不可能性には賭けない。予測不可能な要素はそれを勘定にいれないことで対応する。
もちろん村人というのは、嘘の嫌いな彼らのことだ。


子どものときと違ってみんな嘘が嫌いになってしまった。
Webとかクラウドとか、農業とか流通とか、好感度とかパラメータとか。
原因に対して決まった結果が返ることばかりを気にしている。
一度それが快くなると、やめることもできない。


でも間違っていないだろうか。
予測可能性の裏に予測不可能性が隠れていないわけがない。
誤配がないシステムがあるはずがない。


エイプリルフールが嫌いな私たちは次の2つのことを来年の春までおぼえていよう。


1.4月1日は勤勉な人間が冗談を言い合う日だ。
2.本当に嘘をつくべき日は、4月2日だ。


ただ彼が、「まあ覚えてないかもしれないけどwww」みたいなことを言ったので、いやこっちだってそうだよと言い返すしかなかった。