ストーリーメーカーと「萌え」の行く先

國文學 2008年 11月号 [雑誌]

國文學 2008年 11月号 [雑誌]

個人の物語が、社会の物語が対立するという事態については、『國文学』(2008月11月号)掲載の本田透「「萌え」の行く先」でも考察されている。


大きな物語」=「共同幻想」にリアリティを感じられない大衆が、「小さな物語」=「対幻想」への内向し、さらに狭い「私的幻想」のレベルへ進んだ結果が「萌え」ムーブメントであると前提され、同時に、「大きな物語」が失なわれたときに、人々が強力にニヒリズムに支配されることになると本田は語る。

本田透の論のように、無目的に反復する日常の感覚は、物語の失調と深く関連している。そもそも「物語」とは起点と終点を設定することであり、物語を語ることは、目的論的であることと同じだからだ。

本田透の論では、「文学」が、ニヒリズム状況を打破するための「物語」の祖型を準備し提出するべきだと語られている。


だが、単純に物語が失調した状況に「物語」を設定しなおしたところで、事態が改善するだろうか。

実際には、個人的物語のプロトタイプとして利用できる程度の物語はいくらでも市場に用意されている。
ビジネス書もファッション誌もブログもTVドラマもニコニコ動画も、ありあわせのプロトタイピングに利用できるような物語を一部に含んでいる。(そういう意味では、たしかに文学における物語の発信能力は現在最低レベルだろう)
たとえば、就職活動では、個人と企業が御互いの物語を見せあって、交換が成立しそうであれば、採用が決まる。恋愛でも、自己の物語を「ふたり」の物語として流出させられるかどうかが、最も重要なポイントとなる。


問題は物語が「ある」とか「ない」ということではなく、「ない」という状況への対応がとれない事態にあるのではないだろうか。
つまり、「ない」けどとりあえずありあわせの物語を手に取っておこう、という態度と、「ない」から自分が生きやすいように物語をつくろう、という態度の違いだ。(単純に「ない」から「ある」ようにしようという問題ではない)


それが自己幻想であっても共同幻想であっても、結果的には、現実認識のためのフレームとして物語は機能する。
だから、自分にとって望まざる物語を手にとってしまい、その上で物語に対しての批判ができなければ、その物語が小さかろうと大きかろうと、支配を受ける結果にしかならない。

だから空から運命が落ちてくるのを待つべきではないし、運命を信じるべきでもない。
偶然に選択した物語は、必然によって与えられた物語より重要で、そして所与の物語より、自分が勝手に書き変えた物語こそが高尚であるという意識を持っていれば、対幻想にも共同幻想にも発展しない自己の物語に価値がないなどと考えないで済むだろう。