ストーリーメーカー


ぼくが本書をまとめた動機の一つに、世間を騒がせる事件を起こした若者たちの中に、しばしば小説めいたものを書いていた事例が散見することにもあるます。(……)彼ら彼女らは自分たちの内側にあるものを不用意に「書く」ことによって、一線を踏み越えた印象があります。


というあとがきの一文が印象に残った。


ここで大塚英志は、「構造に無自覚なまま、物語という存在を利用することの危険性」に言及している。
これは、インターネットの構造を自覚しないままにネットアクセスすることの危険性や、メディアの構造に無自覚なままメディアが発信するメッセージを無批判に受容してしまう危険性とおなじ図式だ。


大塚は「物語」とは"因果律"に近いとも語っている。
つまり、ここでいう「物語」とは、現実認識のためのフレームであり、非連続的に存在する事実に関係を見いだすための論理構造でもある。

あるシステムを利用するために、その構造を理解する必要があるわけではない。
コンピュータの構造が理解できなくても、それを利用してなんらかの情報処理はできるように、「自分がどのような物語を選択しているか」ということに自覚的でなくても、われわれは無意識に物語を生成している。


しかし、物語という構造に対して知識がなく、その運用にあたってのリテラシーがない状態では、物語に対する批判ができなくなる。

しかも、物語は細部の事実によって更新されない。
ある物語が生成されてしまうと、仮にその物語に適合しない事実があっても、それを隠蔽するように物語は機能する。なぜなら物語はフレームであり、フレームは細部に先行して認識されるからだ。そして 物語がフレームとなりえるのは、多くの場合非連続的で非論理的に展開する事実に一定の論理構造をあたえられるからだ。


その物語が社会不適合であった場合は、すなわち「一線を踏み越える」」結果になるのだろう。