思想地図 「物語の見る夢」

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ライトノベルを「神話」として捉えるという視点は、キャラクターを「ある現実解釈を表現する手段」として捉えることを可能にする。
キャラクターについて論じようとするときに、キャラクターを表現手段として捉える視点が欠落することはしばしば起こりえる。
「なぜキャラクターを描くのか」「なぜキャラクターという表現が成立するのか」という問いにおいて、キャラクターが描かれること自体の目的が何であるかという点については明示的でない。だからこそ、キャラクターを現実認識の表現手段としてとらえることは、他の様々な表現手法の中から、なぜキャラクターが最適のものとして選ばれたかという議論を可能にできる。

当然ながら、この「なぜキャラクターで描くのか」という問いに対する回答は多様に用意されるべきであり、特定の答えに収束させる必要もないが、少くとも、「キャラクターが身体性を表現できるから」だと考えることは可能であるだろう。

ライトノベルという表現においては、そこに描かれるキャラクターが消費の中心的な目的と考えられている。
物語性や世界観よりもキャラクターの魅力が優先されることがあるとして、その事実と の論考を考えあわせれば、キャラクターがより「インターフェイス」としての機能に優れているのだという命題を導くことができる。つまり、暗黙的で隠蔽された構造としての神話を表現する際のインターフェイスとしてキャラクターのもつ身体性が媒介となるということだ。

もちろん、キャラクターという存在はそもそも高度に記号化されており、他の表現手法における身体表象のほうが十全に身体性を表現し得るのではないかという疑問がありうる。
だが、キャラクターによって表現される身体性は、単に記号的なものではない。むしろ、キャラクターが記号的であるのは、キャラクターが属す現実認識が記号的であるためであり、キャラクター自体はインターフェイスとしてより身体性を獲得するための性質を多くもちあわせている。

例えば、キャラクターの描写はその多くが「セリフ」によって支えられている。身体感覚についての描写では、読者自身が未体験の事項について、知的なレベルではなく感覚的なレベルにおいて共感させることは定義上不可能になる。つまり、登場人物がいまこのように感じていますという身体感覚の描写を行ったときに、読者にとってはそれがいまひとつ理解できないという事態がおこりえるということだ。
小説というジャンルにおいて、性描写や暴力の描写が重要とされることがあるのは、それが人間にとって基底的な感覚であり、身体的共感を呼びやすいからであるという技術的な論理に基づいてもいる。もちろん、ここでそうした身体性に訴える描写を媒介として思想的内容を伝達しようとすれば、その描写についてはある思想をもった記述であるという評価がなされるだろう。重要であるのは、だれもが共感できるような身体感覚を表現の媒体とすることとが極めて有効な意味を持つということである。