http://www.amazon.co.jp/%64ec%4eba%5316%305f%3093%767d%66f8/dp/4757212623/ref=sr_11_1/249-1439155-2683551?ie=UTF8

『擬人化たん白書』 アスペクト 2006.8

 日本一萌えに詳しい精神科医斉藤環先生が、「萌え」と「フェチ」について妙に雰囲気を読み切ったテンションで語っているコラムがある。
 そこでは精神分析の立場からは本質的に区別が出来ないとしながらも、「萌え」/「フェチ」の差について二つの論点が提示されている。

 1.「フェチ」には【実体】が必要だが、「萌え」にはそれが必要としない。
 2.フェチは『部分』で、萌えは『全体』に対する嗜好である。

 1の論点で考えると、『実体』を必要とすることは、「フェチ」が個別的な欲望であることをあらわし、逆に「萌え」はより象徴的なものにたいする欲望であることになる。本来的に、マニアックな嗜好が容易に他人から理解されないのに対して、おたく同士であれば『「萌え」属性』に関してかなり自由に理解しあうことができる。さらに「萌え」に関する記号においては交換価値が全面に表れていて、それぞれが有機的な関係(データベース?)をつくりあげる。となってくると、「フェチ」と「萌え」という嗜好に対して、「想像界」/「象徴界」というアスペクトを適応できるように思われる。
 2の論点においては、フェティシズムの換喩性と「萌え」の隠喩性が語られている。換喩と隠喩の関係性が近接と類似にそれぞれ対応することはいうまでもないが、それはつまり、「萌え」属性と「萌え」キャラクターは類似関係におかれるということを表している。萌え属性と萌えキャラは相補関係にあり、萌え属性が付加されることが、キャラクターとしての全体像に影響をあたえる。萌え属性ゲシュタルト的な総体が萌えキャラクターといってもいい。そして、この萌え属性はすべてデータベースから参照可能な一般的記号である。一般的記号の群から単一の個体が生成されるという構造は、単に萌えキャラにとどまらず、むしろ今日本に生活するすべての人々の人生も同様に形成されうるのではないかと敷衍して語ることもできるかもしれない。
 また通常いわれる「擬人化」と、おたく的な「萌えキャラ化」の違いについても言及されている。修辞法などにおける擬人化は対象への感情移入だが、「萌えキャラ化」はデータベースの要素に特定のマニア的要素を加えたものということができる。自分が乗っている自動車が人間のように感じられることと、それを萌えキャラとして認識することには大きな差があって、後者はあらゆる事物を(萌え)記号化してデータベースの体系内に組み込んでしまうという特徴があると考えればいいのだろうか。【駒】